「韓国」都市通勤型気動車にイソウロウ〜第3部 郊外編〜
↑軍事境界線間際に作られた京義線都羅山駅。ソウルから北に延びる京義線はここで線路が途絶えます。列車の後ろの山を越えればそこは朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)になります。京義線を走るおなじみCDCは非武装地帯観光の観光客を下ろし、ソウルへ向けて折り返します。
ソウルから平壌を経由し、新義州を経て中国東北部に連絡する京義線は1950年代の朝鮮戦争により南北に分断されました。その後休戦状態になって半世紀、ようやく京義線再連結の工事が開始されました。そんな中の2002年、DMZ(非武装地帯)間近に都羅山駅が開業。DMZ観光ツアーの拠点であり、京義線南北開通時は韓国側の玄関駅として使われる予定です。駅の各所には憲兵さんが配置され、むやみに駅周辺の散策はできません。(左中) 駅構内を観光する場合につけていないといけないプレート。ハングルで「都羅山駅/安保観光」と書かれています。DMZ観光客は事前手続をする臨津江駅で専用のプレートを交付されます。
軍事分界線(軍事境界線)を挟んで対峙する南の大韓民国(いわゆる韓国)と北の朝鮮民主主義人民共和国(いわゆる北朝鮮)は今なお半世紀以上続く休戦状態にあります。CDCの走る韓国も現在、政府が準戦時体制にあります。両政府は国連軍の介入で軍事境界線を境に南北2Kmの範囲を非武装地帯(DMZ)とし、北陣営の北方限界線と南陣営の南方限界線をそれぞれの最前線に軍事的な緊張があります。ちなみに新聞、ニュースに良く出る板門店はDMZ真っ只中の軍事境界線上にあり、韓国からの見学ツアーもあります(場所柄、万一の場合は生命の保証は出来ない旨の同意書を書かされます)。京義線再連結工事はこの軍事上の最前線に挟まれた、戦争で破壊された鉄路を連結、南北を列車で往来できるようにする事業です。韓国ではDMZから数キロ南の地点を軍事的に非常に重要な場所とし、「民間人統制区域」と設定しています。この場所は軍の作戦上、民間人の立ち入りが制限されます。京義線は臨津江駅の北、臨津江(イムジン川)から北側が民間人統制区域になり、都羅山駅は民間人統制区域内にあります。
都羅山駅は民間人統制区域内にありますので、訪問には手続が必要で、手続は民間人統制線の手前の臨津江駅で行います。臨津江駅で列車を降りるとすぐに「DMZツアー」と「都羅山駅見学のみ」の2つの窓口がありますので、希望の窓口で身分証明書(外国人はパスポート)と都羅山駅までの乗車券を提示して手続を受けます。その後、駅舎に入り、身体検査を受けてホームで列車を待ちます。ちなみにソウル発都羅山行きの列車がありますが、通しでの乗車は不可(通しの切符販売無し&臨津江駅で強制下車になります)ですので、必ず一本早い列車で臨津江駅に入らなければなりません。
回送列車で帰路につく旨を憲兵さんに申し出てホームで出発待機中の回送CDCに乗車します。ソウルから多くのDMZ観光客を運んで来たCDCは回送列車で臨津江駅に帰り、臨津江駅からソウル行きの通勤列車となります。今回はここ都羅山駅から京義線を南下、3号線接続の大谷駅まで、ソウル郊外を走るCDCにイソウロウします。都羅山駅にはCDC用のホームと将来的に南北直通列車を発着させるホームが分かれています。
出発待機中の運転室にイソウロウ。車内のチェックを終え、戸閉めを行って発車します。都羅山駅に列車が着いた時はホームが観光客で賑わって実感がありませんでしたが、駅長さん,運転士さん,車掌さんと鉄道スタッフのみになると憲兵さんが見張りを絶やさない緊張感の有る本来の風景になります。この地域が軍の管轄と言う事がひしひしと伝わり、まさに「軍人さんに直接守られながら仕事をしている民間人」と言う状態です。戦争が終わっていない現状を体で知らされます。
機関士さんの携帯する運転ダイヤです。都羅山駅〜臨津江駅は回送H4514列車、臨津江駅〜ソウル駅は定期列車の「通勤4514列車」となります。京義線は2004年10月31日から雲泉駅と金陵駅の2駅が新設されました。時刻表には誤通過をしないようにマーカーで線を引いています。ちなみに都羅山〜臨津江間は連動閉塞です。
臨津江を越えて
列車は定刻で都羅山駅を出発。民間人統制区域の中を走ります。(画像は自粛しています)鉄条網に囲まれた線路を走り、臨津江の橋を渡ると観光地、臨津閣の横を走ります。ここには故郷や家族・親戚が北に居る人が訪れ、山の向こう、北で暮らし、今も合えない親族を偲んでいます。臨津閣には京義線がまだ直通していた時代に活躍したミカ3型SLや客車が展示されています。(下3枚) 臨津閣の横を通り臨津江駅に到着します。
我々の乗った列車はソウル行き通勤4514列車として乗客を乗せて出発します。ここからは近隣市民の足、近郊型気動車としての本領発揮です!
戦争地域の足から地域住民の足へと役目の変え、CDCは元気に出発してゆきます。
秋真っ盛りの京義線を南下します。(上段中,右) 列車は新設の雲泉駅に停車。ホーム1本の新設駅とは言え数人の利用客がありました。(中段右) ムン山駅の数百メートル北側にある「鉄馬は走りたい」の看板。2001年秋までは京義線はムン山駅が北限で当時建てられた看板の名残です。*ムン(→さんずいに文)+山
ムン山駅で多くの乗客を乗せます。休戦ライン麓の都羅山駅から10Kmも行かない地点に広がる郊外型の駅と駅周辺の街並み。さっきまでの鉄条網がウソのようです。(下段3枚) ムン山駅を出発すると複線電鉄化工事の中を走ります。そして線路を跨ぐ「破壊ブロック」が…
ムン山を出発してしばらくすると右手に広大な敷地が広がります。ここは京義線の複線電鉄化が完成した際、電動車事務所(電車区)になります。
列車は京義線を快走、坡州駅に到着します(上段中・右)(下段3枚) 電鉄ホームの建設真っ盛りの月龍駅。
月龍駅
月龍駅に停車中に撮影のショット(右上) 駅前の交差点にある国道1号線の案内標識。ハングルで<@ソウル・金村]+[@ムン山・板門店>とあります。生活道路の交差点の案内板に民間人の立ち入れない板門店の文字にビックリしつつ、休戦ラインが近いことを実感させられます。ちなみに韓国の国道1号線は木浦〜ソウル〜板門店〜平壌を経て新義州に至る道路です。
列車は紅葉の風を切って走ります。次はオドゥ山展望台の玄関口、金村駅です。
沿線のあちこちに建設中の複線高架が見えて来ます。数年後にはこの高架の上から沿線風景を見ることになりそうです〜
列車は金村駅に到着。多くの乗客がホームで待っていました。
金村駅でたくさんの乗客を乗せた列車は一路ソウルへ向かいます。
単線の線路に並行するように複線化工事の路盤が続きます。気動車路線としての京義線もあと数年と実感させられます。
列車は収穫の終わった田んぼの脇を快走して行きます。
列車は新設の金陵駅に停車(中段左)。駅の隣には高層マンションが林立します。線路は路盤が元々の複線時の名残で、向かって右側が広く取られており、そのまま線路を敷いて複線化が出来そうですが、時折建設中のコンクリートの複線橋脚が現れます。
周囲に人家が多くなって来ました。生活道路に並行して走る開放的な線路はローカルムード満点です!
列車はしばらく走り雲井駅に停車します。交換設備も無いホーム1本の駅ですが、駅舎と駅員さんが健在です。20〜30人程の乗客が乗って来ました。
(下段2枚) 列車は炭ヒョン(→山へんに見)駅に到着。ここもホーム1本の有人駅です。
都市の紅葉の並木を縫って走る線路の向こうに一山の街並みが見えて来ました。列車はソウル近郊に入ります。
列車は紅葉の美しい一山駅に到着。ここで都羅山行きのCDCと交換します。
(上段左・中) 一山駅構内にはかつて使われていた腕木信号機と信号テコが保存・展示されています。ソウルからのCDCを待って発車します。
通勤型気動車、CDCのディテールを。(上段) 客室に端に有る非常通話装置。緊急時に車掌さんや機関士さんと連絡を取る物です。(下段右) 少し見づらいですが、機関士さんの足元には赤・緑の2つのペダルがあります。緑の方は汽笛、赤い方は運転警戒装置(日本で言うEB)です。一分間操作の無いときにアラームがなり、ペダルを踏まないと非常ブレーキが掛かります。
車窓には人家が一旦減り、その代わりに郊外型の農家が増えてきます。程なく列車は白馬駅に到着。日本人的には大糸線の印象がある白馬駅ですが、韓国の白馬駅はのどかな郊外の駅です^^;
白馬駅から程なくして無人駅の谷山駅に到着します。ソウル郊外ながら物凄くローカル味のある駅です。次は今回のイソウロウ終着点、大谷駅です。白馬-谷山-大谷と日本と同駅名が続きます^^;
谷山駅を発車して間もなく遠くに一山線の高架が見えてきます。その高架との立体交差店が乗換駅の大谷駅です。今回のイソウロウはここまで。
首都圏電鉄と京義線のターミナル駅ながら大谷駅前は数件の農家しかなく閑散としています。日中は一時間ヘッドでの運転の京義線ホームは無人でホーム一本。有人で複線電化の地下鉄ホームと対比すると少々寂しい心情です。ちなみに駅の中には九老電動車乗務事務所(運転区)〜大谷支所があり、一山・ソウル3号線の国鉄運転士(機関士)さんの交代拠点になっています。
終点ソウルに向けてCDCは都心に入ってゆきます。
南北連結と電鉄化、2つの大きな変革を迎えようとする京義線。日本時代は日本から釜山を経て満州を目指す大動脈でしたが、現在はソウルの近郊通勤路線に。そして半世紀の時間を経て、平和への願いと共にソウルからユーラシア大陸縦断の夢を繋ぐ鉄道へと生まれ変わります。休戦ラインの軍事的な最前線から1時間程で大都市ソウルの郊外へと車窓が変わる京義線。「数年後はここも複線電化され、北に向かう列車と近郊の通勤電車で賑わう事だろう」と思いを馳せながら現在の活躍を送るCDCを後にした…
イソウロウ日時2004年11月